よもやまの地よりお送りします

思ったことや調べたことを書くところ

本の話

 日記をほぼ毎日書いていた時期もあったのだけれど、今やあの頃、何を書いていたのかが全く思い出せません。

 日々のことをTwitterに書いているから、割と満足なのかもしれません。あるある。

 そんなわけで、最近買った本などはりつけ。

 やっぱり紀貫之の毒舌仮名序がクリティカルヒットで面白かったのが印象的です。

 小学校のときに紀貫之とか六歌仙とか覚えさせられた気がするんですけど、六歌仙は後世の人々が勝手に呼んでるだけで、内容を読むと「歌を詠めば歌だと思いやがって、まぁさっきあげた6人くらいはまだマシレベルだよね(超意訳)」なんて言い方してると思わないじゃないですか。虚を突かれたからか、私の性格が悪いのか、思い出し笑いもできるくらい笑ってしまう。

 古い本を読むと、当時の文化で知らないことが多いのですが、今や検索すれば有識者の見解が得られるので、随分読書しやすくなったものだなぁと感心します。

 今でも忘れられないのが、小学校三年生の頃に『吾輩は猫である』を読もうと息巻いて読み始めたら、活版印刷みたいな文字のかなり古い本を読みはじめてしまって、ポケット辞書で引きながら最初の数ページを2、3時間かけて読んだことがあります。

 中でも「書生」の意味が分からなくて、本にある注釈を読んでも「他人の家に下宿して家事や雑務を手伝いつつ、勉強や下積みを行う若者(うぃきぺ引用)」くらいの書き方しかされておらず、(小学校三年生というと私は3月生まれなので9歳程度の頃ですが、)幼い頭に更に「下宿」も「雑務」も分からなくて、延々と辞書を引き続けるという有様になったのを思い出します。

 よく読む気になったなぁと今では思いますが、当時は「私は『はてしない物語』を読んだことがあるんだぞ!」という自信にあふれていたので、読めない本なんてないのだと思っていたんですね。結局『吾輩は~』は読み切れずに、今日に至ります。いい加減、スムーズに読めるようになっているはずなので○○年ぶりにチャレンジしてもいいですね。

 『はてしない物語』は知っている人は知っているミヒャエル・エンデの名作ファンタジーで、映画化もしたことがあるんですが、原作本は分厚くて、本の装丁もメチャクチャ手の混んだ一冊です。上下巻になっている文庫が手に入れやすいのですが、是非図書館などに行って、「あかがね色の絹で動かすとほのかに光り、中は二色刷りになっている」本で読んでほしいんですよね。ある種ネタバレなんですけど、本の中で主人公が読んでいる本と同じ装丁なんですよ。

 これを姉が大ファンで、小2の頃に一晩で読み明かしたそうなんですけれども、私はその話を母から何度も何度も聞かされたために「やばい、私も小2になったら、はてしない物語を一晩で読みきらないといけない」というプレッシャーを感じてしまい、小2の夏休みに一生懸命読んだのを思い出します。結局2,3日かかりましたけど。

 話は戻って、吾輩は猫であると比較すると、同じ国の人が書いたものだからとか、海外の人が書いたものだからとかいう差よりも、如何に現代人が読みやすいか否かという部分が、「こどもが読みきれるかどうか」の境目な気がします。もっと最近の吾輩は猫であるを手に取れてれば良かったねぇ。

 

 幼くなくても、昔の本というのは私の中では結構ハードルが高かったのですが、刀剣乱舞にハマって、改めて織田信長のことを知りたい!となったときに、現代語訳の信長公記を読んでみたら、思いの外楽しく読めたのが、ハードルを取っ払った大きな部分です。今回買った信長公記で3冊目なんですけど、同じ内容でも読みやすさって変わりますよね。ツイートにも書きましたが、行間が広く確保されているし、注釈も逐一下の方に書かれていて、かなり読みやすくされていたので、何度もじっくり読みたいときにはいいなぁと思って買ってしまいました。辞書やカタログレベルの分厚さなんですけどね。本を買う人ってそのうえで値段見て「お!安いじゃん!」と思うと買っちゃうことあるじゃないですか。あるある。

 あともう一冊買ったんですけど、そちらは読むというより参考資料であって、まだ本を片手に遊べてないので、また今度。

かきはじめ

何か書いて残しておきたい気持ちになって、原点回帰でブログを開設してみた。

Twitterが本拠地になってから、全てそっちに垂れ流しているから、この頃なんて言ってたっけ?が生の声なのはいいけれど、見つけるのも時間がかかるのだ。

オタクの拗らせメモも見やすくしておきたいなぁという目論見だ。

日記のつもりで書いていきたいなぁと思います。